26. 「原発事故と科学的方法」出版(2013/10/24書きかけ)
というわけで、岩波から本をだしました。
いくつか、書評的なものをいただいたのでリンク
うーん、その、なんか全体に褒めすぎな気がしますね。と、それはともかく、
さつきさんが書かれていた
次に、同じ序章の「高校生の頃に岩波新書の『原子力発電』(武谷三男編、
1976年)を読んでいて、大学でのサークル活動や自主ゼミでも原発の安全性
などについて勉強会をしたことがあったので」というくだりを読んで、さら
に昔のことが思い出され、再び中断を余儀なくされた。おそらく、この牧野
さんの本をどう読むかは、3.11前に原発に対してどのようなスタンスで臨ん
できたかという「個人史」にもかかわって、人それぞれに異なってくるだろ
う。
原発の問題にかかわる「科学的方法」の実践が容易でないのは科学を取り巻
く社会的な構造から招来するもので、その状況認識ができていないと、その
実践はいっそう困難なことのように思われる。名古屋工業大学の市村正也さ
んが 3.11の前から指摘していたように、リスク評価に際しては、関係者がルー
ルを破るリスクや、専門家が故意に嘘をついたり情報を隠蔽したりするリス
クを考慮しなければ、実践的な過誤、そして社会的な災厄を生む。
そうしたリスクは、ふつうは「科学」の世界では無視されてしまうのである
が、しかしそのことは、3.11の前から原発に関心をよせてきた者にとっては、
その関心のありようによって様々なレベルで常識的なことであった。 3.11後
に東電原発事故をめぐって科学者達の世界におこった一見カオスのような様
相も、このことが個々の科学者にとっての分岐点となって顕れた結果ではな
いかと思う。
の部分、特に「この牧野さんの本をどう読むかは、3.11前に原発に対してどの
ようなスタンスで臨んできたかという「個人史」にもかかわって、人それぞれ
に異なってくるだろう。」の1文は、色々な読み方ができるのですが、極めて
単純化してしまうと、原発は危険なものであり、安全である、という宣伝はデ
タラメである、ということを 3.11 以前から知っていた人でないと、事故後に
正しい判断はできなかったのではないか、ということになるように思います。
これは多分そうなのですが、では知っていたら正しく判断できたか、というと、
名前をだして申し訳ないのですが、例えば原子力資料情報室からの情報発信は、
定量性を欠いた不十分なものでした。
(例えば これ)
これは、やはり、科学者としての力不足、ということがあったのではないかと
思います。というのは、本でもふれていますが、 JCO 事故の時にもやはり適
切な事故規模の評価が早い時期にできた人は限られていたからです。
科学者としての力、といっても、これも本をみていただければわかるように
大したことをやっているわけではありません。それにもかかわらず、
原発事故発生から1ヶ月にわたって、放出された放射性物質の量はわずかであ
る(レベル5である)という東電・国の発表を、信じてはいなかったかもしれな
いけれどおかしいともいわなかったのは何故か、そこでどういう自己規制が
働いたのか、というのは(残念ながら私にはわからないので)働かせてしまった
人は考えて欲しいところです。
もっとも、当時東電・国の過小評価発表を疑うことがなかった人の現在の発言
を見ると、東電・国が情報をもっているんだからそれを信じるのが正しい、俺
はなにも間違ったことはしていない、という開き直りともいうべき主張が散見
されるのは、まあ、人間とはそういうものなんでしょう。