(これは9月に書いたものですが、すぐには公開する気にならなかったものです)
既に TENNET で流れている通り、理化学研究所計算科学研究機構で私の研究チー
ムに所属していた村主崇行君が、 7/11 に亡くなられました。まだ33歳でした。
言葉に表現できないほど悲しく、また残念です。
私が村主君と初めてあったのは、2006年の秋、京大理学系で集中講義をした時
でした。講義自体は、犬塚君、早川さん、阪上さんと偉い人が沢山いて、
あまりなんの話をしたか憶えてないのですが、講義のあと、村主君がよってき
て、院生部屋にひっぱっていかれて、自作の「全自動ブックスキャナ」をみせてくれ、
動作を説明してくれました。
私は職場(と自宅にも)キャノンのスキャナを導入してからしばらくしたところ
で、色々日記に書いてたりしていたのですが、それも知っていて、自分のをみせたかったようです。メカニカル
な仕掛けで本のページをめくって上からデジカメで写真をとる、という仕掛け
をレゴ・マインドストームで組み立てたものでした。
その前に村主君のことは誰かから聞いていたのか、「これがあの村主君か」と思っ
たような記憶があります。
次に、村主君とかかわりがあったのは、2008年、天文台のスパコンがCray XT4
に変わった年です。それまでの計算機は VPP5000 だったので、あまり大規模
並列ジョブとかで使える人がいなかったのですが、村主君は、パラメータサー
チ的なもので大規模キューを埋める、ということをやってくれて、一つの新し
い使い方を実証してくれました。
そのあと、村主君は「Paraiso」つまり、偏微分方程式の陽的差分法向けの、
コード自動生成・自動チューニングシステムを着想し、2010年には京大の第一
期の白眉フェローにまだ天体核博士課程在学中に採用されて、そちらの研究に
取り組むかたわら、博士論文になった「原始惑星系円盤における雷現象」の研
究も進めていました。博士論文は2013年度に提出され、博士(理学)の学位
を取得しています。
私はそのころからポスト京の開発と、粒子系向けの並列ソフトウェア開発フレー
ムワーク FDPS の開発に携わっており、2014年には東工大から理研AICSを本務
にしています。そういうこともあって、ポスト京や将来のHPCシステムでは、
村主君の Paraiso のアイデアをさらに発展させた、差分スキームを書くとちゃ
んと指定した計算機で実現可能な最高効率をだすようなプログラムを自動生成
するシステムが必須であると考えていました。それには世界でも村主君が最適
任なのは明らかなので、是非とも理研AICSで一緒にできれば、と思って、さそっ
てみたところ、大変ありがたいことに一緒にやりますといってくれて、2014年
6月にAICS に着任しました。
そのあとは、キャッシュがある計算機での陽的スキームの性能の理論限
界(temporal blocking をした場合)の定式化、理論的限界を実際に実現する
PiTCH タイリングの考案、実際に差分スキームからコード生成をする
Formura システムの開発、と村主君らしいすさまじい勢いで研究が進み、
去年の4月には、Formura で生成した、temporal blocking を使う コードが
「京」全系で動作するようになり、その性能評価で書いた論文で
SC16 のゴードンベル賞ファイナリストにも選ばれました。本賞自体は、
「京」の10倍以上の 125PF のピーク性能をもつ Sunway TaihuLight 上での
気候コードにもっていかれましたが、素晴らしい成果であることに変わりはあ
りません。
村主君の活躍は、天体物理とHPC だけにとどまるものではありません。
「すごい Haskell 楽しく学ぼう」本の訳者としても著名であり、また
国際大学対抗プログラミングコンテストに何度も上位入賞した
天才的プログラマとしても有名でした。
昨年初めから、AICS の我々と、PFN で、人工知能、特に深層学習向けの
高性能プロセッサの研究開発を進めていて、これはNEDOからの助成をうけ、
AICS 側は村主君が代表になって進めてきていました。
村主君は、PFI が創業した時のメンバーでもあり、PFN代表の西川さんとは古
くからの友人、というより、ICPC(国際大学対抗プログラミングコンテスト)で
の仲間でもありライバルでもある、という関係と聞いています。そのような縁から機械
学習にも興味があり、Paraiso におけるチューニングにも様々な機械学習アル
ゴリズムが取り入れられています。さらに、奥様である羽田裕子さんや、京大
の他の研究者と、機械学習を太陽のフレアの予測に利用する研究も進めていま
した。このため、近年の機械学習の発展も十分フォローしており、深層学習プ
ロセッサの開発についてのアルゴリズム・ソフトウェア面からの検討、仕様の
策定、必要なソフトウェア開発にも大きな貢献をしてくれていました。
プロセッサ開発が佳境を迎えたこともあり、ここしばらく、週に2日程度は東
京にいって、PFNで開発作業をしていました。7月10日も、
そのように東京出張しており、10日は元気に皆と一緒に作業をしていて、
私は神戸にいたのですが定例のテレビ会議では顔を合わせ、検討状況を聞いた
りしていました。
翌日、11日の午後に、村主君が倒れた旨連絡があり、夕方遅くには、なくなら
れたとの情報がはいりました。出張先のホテルでくも膜下出血で倒れて発見が
遅くなり亡くなったとのことでした。葬儀は、ご遺族のご意志により近しい方
のみで執り行われました。
正直、今でも、まだ本当には信じられない思いです。
村主君は、天国でも、やすらかに眠るだけではなく、大好きなプログラミングに
とりくみ、すごい成果で周りを驚かせていることと思います。