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4 考察

4.1 指標の検討

本論文では、2つの研究グループをいくつかの指標によって比較し、グルー プの「優秀さ」、あるいは研究コミュニティの中での評価の差ががどの ように指標に表れるかを検討した。結果は以下のようにまとめられる。

・論文の量に基づく指標、例えば研究者当たりの論文数、その平 均引用度などは研究コミュニティの中での評価の差にあまり関係がない ようである。

・非常に引用度の高い論文の本数は有意な違いが見られる。しか し、コミュニティ内の評価の差を説明するのに十分とはいい難い。

・非常に引用度の高い論文の分野と時間の広がりは、評価とより 大きな関係があるように思われる。非常に引用度の高い論文は多くの場 合新しい研究分野を開拓した先駆的な論文であり、コミュニティ内での 評価は分野を新しく開拓したことに与えられていると考え られる。

・新しい分野の開拓は、グループ内での協力関係の組変えを伴っ ている。

論文数、被引用度などの量的な指標がかならずしも研究者の能力を表す ものではないということは従来からいわれていることではある。例えば MacRoberts and MacRoberts [5] は10以上の論拠を あげて引用度を指標とすることを批判している。しかし、そのような批 判は、それが単なる批判にとどまる限り、新しい評価手法につながるも のではないであろう。我々の得た結果は、単なる本数ではなく、ある論 文の科学への「貢献」の度合を定量的に測定する可能性を示唆するもの である。

我々の得た結果は、ある論文(あるいは「業績」)の評価は、その業績 が開拓した研究分野がどういうものかということによってなされている ということを意味している。これは、研究者が通常行なう直観的な業績 の評価のしかたと整合的である。ここでいう、直観的 な評価のしかたというのは以下のようなものである。た とえば湯川による中間子の提案を重要な業績であるというとき、「重要 さ」が意味するのは、この仕事がその後数10年間の素粒子物理学の研究 の基本的な枠組を与えたとみなされているということである。

我々の結果は、ある研究グループは必ずしも一つの分野に留まっている わけではなく、新しい分野に移る(というよりはむしろ新しい分野を作 る)ことがあり、しかも、そのようなグループに高い評価が与えられる ということを意味している。これは、研究分野がライフサイクルを描く 時に、それに従ってライフサイクルを描くグループとそうでないグルー プがあるということに対応すると考えられる。

山田ら[6]による研究分野のライフサイクルに関する研究 では、このようなプロセスはほとんど無視されているといってよい。例 えば林・山田[7]は化学の領域の数十にのぼる研究テー マについて、論文数の時間変化を調べ、それがライフサイクル的な特性、 すなわち上昇からやがてピークに達し、その後下降するという特性を持 つことを示した。さらに山田ら[6]は原子力工学、情報処 理、行動計量学など 8 分野について、その成立過程を分析した。彼らの ライフサイクル論に従えば、いかなる研究分野でも、共通の成長--成熟-- 衰退のパターンをとるということになる。

しかしながら、仮にパターンは同じであったとしても、「成功を収めた」 とみなされる研究分野とそうでない分野は明らかに存在する。巨額の研 究費が投入され、多数の研究者が参加していてもそれほどの成果をあげ ていないとみなされる研究分野もあれば、逆に小額の研究費、小人数の 研究者で目覚しい成果をあげたとみなされる分野もある。このような違 いは、成長過程の定量的分析からはなかなか明らかにならない。

我々の結果は、このような成果(ないしは研究コミュニティの中での評 価)の違いが生じるメカニズムの一端を明らかにしたものといえよう。 すなわち、研究グループの評価は、かなりの程度まで新しい分野をつくっ たことに依存している。ある分野はライフサイクルをたどって衰退して も、次々に分野を開いていくことで評価を高めていくことができるので ある。

このような分野を開いていくメカニズムを明らかにするためには、ある 論文が新しい研究分野を開いたかどうかの定量的な測定を行なうことが 必要であろう。これは十分可能であると考えられる。例えば論文の引用 関係だけを使うとすれば、直接の引用だけでなく、対象とする論文を引 用している論文の被引用度(孫引用度あるいは2次引用度)、さらに高次 の引用度などを組み合わせることで、ある論文の貢献度の、単純な被引 用度に比べてより改良された尺度を作ることはそれほど難しいことでは ないだろう。

上のような高次の被引用度は、大雑把にいってその業績が含まれる研究 分野の大きさと、その分野の成立、発展に対してその業績が果たした役 割の積のようなものを表現している。その意味で高次の被引用度は業績の果た した役割の尺度になっているといえる。したがって、さらなる改良として は、これらの要素を分離すること、すなわち、研究分野の大きさと、そ の中での特定の業績の貢献度を別々に測定することが重要であろう。こ れは、「研究分野」というものを特定し、その中での論文の引用関係の ネットワークを解析することで明らかにすることができよう。

実際にこのような高次の被引用度に基づく尺度を構成するのには、もち ろん技術的な問題もある。最も大きな問題は、「尺度が安定するまでに 時間がかかる」ということである。通常の直接引用度については、出版 後 10 年程度でほぼ落ち着くということが知られているが、例えば3次の 引用度が落ち着くためには3倍の時間がかかる可能性がある。すなわち、 例えば 30 年以上前の業績しか研究対象にできなくなってしまう。

しかしながら、このような問題は、実際にある業績の貢献度を測定しよ うとした場合には必然的に起きる問題と考えられる。ある業績がどの程 度貢献したかというようなことを決定しようとすれば、どうしてもかな りの時間がかかることはやむをえないであろう。もっとも、例えば高次の被引 用度の時間微分をとり、適当なモデル化によって収束する値を予測するといっ たことも考えられる。これによりより短い期間である程度の精度の評価ができ る可能性もある。

より本質的な問題は、高次の被引用度はもちろん一次の(通常の)被引 用度に比べて貢献の度合いを表しているにせよ、依然として「貢献」そ のものではないということであろう。これについては次節でもう少し別 の観点から考えることにしたい。

4.2 科学の発展の意味

前節では、単なる論文数や被引用度ではなく、ある論文が研究分野の発 展に果たした役割をとらえられるような尺度を構築する可能性について 議論した。本節では、「科学の発展に貢献した度合」というものを問題 にする意味を考え直してみたい。このようなものを分析の対象にする時、 その根本にある問いは、「科学はどのようにして発展するのか」、さら には「科学が発展しているというとき、我々はいったい何を意味してい るのか」というものであろう。

科学がいかなる意味で発展しているといえるのかというのは、難しい問 題である。いわゆる相対主義、ないしは知のアナーキズムといわれる立 場では、科学が発展しているというのは意味がないということになろう。 相対主義を拒否し、科学が発展しているということを示すための試みは、 ポッパーの反証主義[8]を代表として無数にある。しかし、そのような試み は、特に物理学の研究者からは現実離れした観念的なものとみなされて いる(例えば佐藤[9])。これに対し、社会科学、経済学な どの研究者は反証主義の ようなものを現実に有効な規範ととらえる傾向がある(例えば佐和[10])。これは、物理学 が科学の典型と考えられていることを考えれば、非常に奇妙なこととも 考えられる。多くの物理学者は、科学の研究方法が、論理実証主義によっ て主張されるような合理的なものではなく、むしろクーン[11]、ファイヤー アーベント[12]、あるいはより詳細な記述としてはラトゥール[13]によって描か れているような非合理的なものであるということを認め、しかし、それ でも、「科学が発展している」ということは疑問の余地のないこととし ている。というよりはむしろ、科学が発展しているということを疑問の 余地がないこととしているために、方法が非合理的であることを認めら れるということもできよう。しかし、物理学の研究者の多くが持つ素朴 な科学の発展のイメージは、相対主義からの批判に耐え得るものではな い。

それでは、「科学は発展している」というのは根拠のない非合理 的な信念、いいかえれば宗教にすぎないのであろうか。極端な相対主義 の立場ではもちろんそうであろう。そのような立場では、科学というの は現代の宗教であって、それ以上のものではないということになる。

しかし、仮に科学が多くの宗教のなかの一つにしかすぎず、科学である ということに特有の発展のメカニズムを持つわけではないとすれば、現 代社会において科学の権威というものがあきらかに宗教のそれよりも大 きいのは何故だろうか。また、それ以前に、いわゆる(大文字の)「科 学革命」のあとの科学の、少なくとも量的な成長が、非常に急速なもの だったのはなぜだろうか。科学の方法論的特徴に科学の他の活動に対す る優位性の根拠を求める試みはすべて失敗してきたといってよい。従っ て、研究現場での方法ではなく、ある業績が研究コミュニティに受け入 れられ、新たな研究活動を引き起こしていく、さらにはそのコミュニティ が研究活動のための資源を獲得していくメカニズムの方に科学というシ ステムの特色があると考えられる。これは、「発見の文脈」、「正当化 の文脈」という2分法に対し、さらにその両方の後にくる「受容・変換の 文脈」ともいうべきものに科学の特色があると考えることでもある。あ る業績が科学に貢献したと認められるためには、もちろんそれが発見さ れるだけでも、さらには出版されるだけでも十分ではない。その結果が 多くの研究者によってさまざまな形で利用されて初めて「貢献した」と いえるわけである(Fujigaki[3])。

この「受容・変換の文脈」は、ラトゥール[13]のいう、 fact-making process にほぼ対応するものである。しかし、ラトゥール が与えたものは、そのプロセスのほとんどクロノロジカルな記述でしか なく、なぜそのようなプロセスが機能するのかという説明が与えられて いるとはいい難い。彼は多数の実例によって、単なる仮説に過ぎなかっ たものが一般に受け入れられる「科学的真理」に変化していく過程を描 いている。しかし、ここでも、「科学的真理」になるものとそうならな いものの違いは明らかではない。「受容・変換の文脈」すなわちある業 績が研究者コミュニティによって受容されるメカニズムを明らかにする ことによって、初めて科学の発展とは一体なにかという問に有意味な答 を与えることができるだろう。

方法論ではなく評価メカニズムを重視する立場は、一見ファイヤーアー ベント的なアナーキズムの主張につながるようにみえるかもしれない。 ここでは、必ずしもそうではないということを指摘してこの論を締めく くることにしたい。

ファイヤーアーベントの主張は、本質的には以下のようなものだといえ よう。すなわち、研究の合理的方法論としてどのようなものをもってき たところで、現実の科学研究でおきていることは常にそれに違反してい る、また違反しなければ現在までの進歩はあり得なかった。従って、合 理的な科学の方法論などというものは存在しない。従って、科学の進歩 が合理的であるというのは不可能であるというものである。

評価メカニズムを重視する立場は、ファイヤーアーベントとともに(ま た、現場の多くの科学者とともに)研究そのものを導く合理的な指針は 存在しないということを認める。しかし、このことから直ちに科学が合 理的に進歩しているわけではないということを結論しない。そのかわり に、発見・発明の受容・変換のプロセスが「発展」を担っていると考え る。

ある発見・発明が研究コミュニティに受け入れられていくプロセスは決 して単純なものではない。まず、成果は発表されなければならない。現 在の研究コミュニティにおいては、これは通常、ピア・レビュー制度の ある専門誌に掲載されるということを意味する。レビューは専門家によっ てなされ、間違っている、あるいは意味がないとみなされた論文は掲載 を拒否される。さらに、専門誌に掲載されたとしても、それが直ちに 「受け入れられた」ということを意味するわけではない。多くの論文は、 出版されたあとまったく引用されることもなく図書室の中に眠ることに なるからである。仮に結果が申し分なく「正しい」ものであったとして も、その後誰にも引用・応用されることがなければそれは「受容された」 というに値しないであろう。

ある論文が、興味深い、あるいは重要なものであるとみなされると、そ の論文にさまざまな形で影響された研究が行われ、その成果である論文 が現れてくることになる。この、後続の論文の発生こそが「受容」を端 的に表現するものであろう。すなわち、「受容される」と は新たな研究を引き起こすということであり、それはある程度まで被引用 度、あるいは前節で検討した高次の引用度に表現されると考えられる。

この立場に立つと、もしも科学の進歩が合理的なものであり得るとすれ ば、その合理性は個人の研究行為の中にあるわけではなく受容・変換の メカニズムの中にあるということになる。現在のところ、個人の研究行 為に比べて、レビューイングやその後の受容・変換プロセスはよく理解 されているとはいい難い。これらの過程のミクロスコピックな研究は、 「科学の発展」というものを理解する新しい観点を与えることになるだ ろう。



Jun Makino
Wed Apr 14 12:49:24 JST 1999